「AERA」に星野博美という人がシールズ礼賛記事を書いている。
そこにこんな一節がある。
「自分には持てなかったその勇気は多くの人を揺さぶり、
心の準備ができない人を苛立たせもする。」
これが問題なのだ。
星野氏はデモに行くことを「勇気」と言う。
デモに行かなかった者は「勇気」を持てなかった者にしてしまう。
恐ろしい同調圧力だ。
戦前もこういう人間がいっぱいいたのである。
若者を万歳三唱で戦地に送らぬ者は「非国民」とされ、
最終的には神風特攻に志願するのが「勇気」、拒否すれば「非国民」
という同調圧力すらかかるようになっていった。
シールズを礼賛する人々の多くが、こういう「正義」を妄信する
パターンに嵌っていて、デモに行かない「勇気」があるという
ことには全く思いが至らない。
それほどまでにシールズのデモを「正義」だと信じ込んでいる。
「反戦」の者が、実は「好戦」だというこのパラドックスが
分からぬ者が、安易に戦前の日本人を非難する。
こういう危ない傾向を食い止めるために、わしは薬害エイズ運動
の総括として『脱正義論』(幻冬舎)を出した。
当時の薬害エイズと、今の安保法制では、その切実さが比べもの
にならないのだが、今のナイーブな人々の増加は異常だ。
星野氏は、シールズが主催するデモに初めて出向いたのは、
「社会を変えてもらうためでも、夢を託すためでもない。
もしかしたら、昨日とは少し違う自分に、国会前で会いたかった
のかもしれない。」と告白している。
つまり、こういうことなのだ。
「自分さがし」なのである!
オウム真理教に嵌っていく若者も、ナイーブで、自分さがしの
病を抱えていた。
「個」がふらついているから、同調圧力に負け、デモの集団に
混じって「正義」を手に入れたくなる。
カルトに嵌る連中はこういうナイーブな心理を持っている。
わしはオウム真理教と戦い、暗殺されかかった者として、
薬害エイズ運動を手伝い、総括として『脱正義論』を描いた
大人として、やっぱりこう言っておかねばならない。
「デモに参加しない若者は、同調圧力に負けるな!」
「日常を手放すな!」